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淀川の花火とカミナリと。

2009-08-09 Sun 14:14:43

昨日はめっちゃ近所で大きな花火大会。
初めて見に行った。
とにかく近くで見ようと近づくと、かなりの迫力だった。

何万人も集まって、見せ場で歓声が湧くというのが、本当によく出来ている。花火を考えてきた人たちの歴史があるんだなと演出を見て感じた。職人の生き様かとか考えたり、実はmax/mspとか使こてたらおもろいな、とか。
いずれにしても花火にも、時間と空間、言語と文脈があって、じらされ安堵させられる。

さて、その日はその後の夜遅くに、同居人と合流するためにチャリで南船場へ。
途中、淀屋橋を渡っているとカミナリが遠くで静かに光る。
この、手に届かない感覚、簡単に言うと自分の都合ではどうにもならない体験というのはこの先とても大事な感覚だと感じている。

(自分のアイデンティティなんて通用しないほどの自然的物理的出来事を前にして人間が出来る事ってなんなんだ、とか???)

先の花火は、出来事として人間が理性的に考え、処理された物で、かき回される感覚に危険はない。それはボクらの都合に合わせて演出されている。

ここの差に、舞台芸術とパフォーマーをめぐる重要な分岐点があるように感じてならない。(繰り返しが可能な「パフォーマンス」が一部の観客を飽きさせるのはなぜか?飽きない観客はなぜ飽きないのか?)

理性というものが何万年もかけて、危険を回避し、種として生きながらえる手段として開発された物だとしたら(もちろんそれ以上の思考を生み出しているけど、とりあえず)、そこをどうとらえるのか、ということが今パフォーミングアーツの分岐点にあるのではないだろうか。
理性的な発想の文脈は、作り手が様々な収集、解体、編集能力を駆使して創作された物も、再度解体されるのは時間の問題である。

分からないのは飛び降りたり、避けたり、勘で動いたりする、身体(もしくは身体的創作。もちろんパフォーマーを素材としながら圧倒的に非身体的な作品を作る人もたくさんいる。)である。そしてそれは(理性にとっての)間違いを常に起こす。もしくは、なぜならそれは常に(理性にとっての)間違いを起こす(から)。
間違いがとてもリアルなのは、それが種にとって危険だからである。
つまり、その間違いである出来事に対して防衛としての生命が目覚めるとでもいうのか。
(そういう意味でダンサーなら演出家の言う事を聞いたらだめだと思う。でも舞台袖までは聞いてあげましょう。)

例えば部屋が散らかっているのは間違いだろうか。
ミニマルなインテリアに囲まれた生活を送る人が抱える深刻な悩みってどんなものだろうか?
もしくはADHD、ADDは間違いだろうか?
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7503-2413-5.html

ケージやカニングハムのチャンスオペレーションであるとかバロウズのカットアップであったり、芸術の分野で人は理性的判断をしてしまう自分から逃れようとする。しかも理性的に。エラーを起こす環境の製作とでもいうのか。
カットアップに関してバロウズは、言語で人間を支配しようとする宇宙人の仕掛けから逃れるため、だと言ってると解説しているのを学生時代に聞いたか読んだかして、読んだのが「ソフトマシーン」だった。(でも、これはもう途中でもう読まなくてもいいよね?と自問して。)

自分でもそれが何なのか分からないものを生成するにはどうしたらいいのだろうか???人間が想像するモンスターは様々な動物のパーツの寄せ集めだとどこかの有名人が言っていたのを思い出す。

人工知能の育て方に関しても、例えば人間を超える知能を育てるためにはどこかで彼らを手放す必要があって、予想できないエラーをどう起こすかという所にかかっているのかもしれない。
とても原始的なフリーウェア(変更できるのは数点の環境要因のみ)の人工知能が延々とピヨピヨ漂うのを眺めてた学生時代を思い出す。。。天才が生まれたらどうしようと心配していた。

つまり(ははは。)、あらゆる出来事を前に自分はポジティブに無力なんだと降伏して、すべての出来事を受け入れ、でもそこでエビアンのボトルを握りしめ崇高の波に乗れたら万々歳、という出発点を持ちたい。
そしてそれを「accidental aesthetica」と呼んでいる。